2011年11月21日月曜日

金太郎2

モーガン社長

学校で教える勉強はすでに世の中にあるものだ
それを学び知ることは基礎でしかない
人間の知恵とはその先にある
世の中にないものを考え出し創り出すことにある。

メンター

今の自分のメンター。
 ・本田圭祐
 ・東野圭吾
 ・孫正義
 ・Y.Ito

2011年11月12日土曜日

サラリーマン金太郎

大将の条件
正直であること
気前がいい事
  下の者に対して自己を犠牲してでも守ってやるという精神。

2011年11月5日土曜日

Youtubeで学ぶリアル英会話 
1. Severn Suziki Speech(for E.C.O)
スピーチで大事なこと
  1.イントロとコーダが引き締まっている。
  2.スピーチの目的が明確
  3.このことを伝えたいという熱意
  4.話に変化、メリハリ
  5.聞き手の五感に訴える
  6.忘れられない名文句を残す
2.Randy Pausch(カーネギ大学)
  Experience is what you get when you didn't get what you wanted
  経験とは、求めていたものが手に入らなかったときに得られるもの。
  head fake(頭のフェイント)
3. Lou Gehrig(Yankees)
4. Clinton Speech
5. 9.11 Bush Speech
6. Steve Jobs' 2005 speech

2011年4月4日月曜日

ユーラシア横断鉄道

http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20110401-00005808-r25

2011年3月12日、九州新幹線鹿児島ルートが全線開業した。政府が九州新幹線の整備計画を決定したのが1972年だから、実に39年越しの念願がかなったといえる。これにより博多-鹿児島中央間を最速で1時間19分で行き来することが可能となり、九州経済のさらなる活性化が期待されている。

しかし、世界では遥かにスケールの大きな鉄道計画が複数進行中だという。そのひとつがロンドン-北京間を結ぶ「ユーラシア高速鉄道計画」だ。時速350kmのスピードでユーラシア大陸を2日間で横断するなんてスゴいスケールだが、実際、中国がヨーロッパ各国と交渉をすでに進めていて、今後10年以内に開業する見通しだという報道もある。ほかにも中国メディアが報じている情報によると、中国の南部の都市・南寧を出発し、ラオス、タイ、マレーシアなどを経由してシンガポールまでを結ぶ「東南アジア高速鉄道計画」が着工されるようだ。またブラジルでも2016年リオデジャネイロオリンピック前の開業を目指し、リオデジャネイロからカンピーナスまで518kmを結ぶ大規模高速鉄道計画が進行中。

なぜいま世界であらためて鉄道が注目され、スケールの大きな計画が進行しているのだろうか。

「鉄道の敷設には多額の費用がかかり、先進諸国でも新たな鉄道の建設には二の足を踏んでいました。しかし、原油価格の上昇や地球温暖化にともなう環境意識の高まりから、少ないエネルギーで大量輸送が可能という効率の良さや環境への負荷が少ない点で、あらためて鉄道が評価されています」と解説してくれたのは鉄道ジャーナリストの梅原淳さん。

「鉄道に郷愁を覚えたり、鉄道の旅に心ひかれるという気持ちは万国共通ではないでしょうか。高度な技術をもっていても、どこか生き生きとした機械の面影を残しているところに鉄道の魅力があるのかもしれません」

近い将来、あえて飛行機を使わず世界を巡る、といった楽しみが身近になるかもしれない。
(本折浩之/東京ピストル)

2011年3月16日水曜日

地震をもって僕自身が感じたこと①

今回の東北地方太平洋沖地震を通しての自分なりのメモを記す。

①発生
2011年3月11日14時46分

震央分布http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_of_Sendai_Earthquake_2011.jpg

■発生メカニズム
太平洋プレートと北米プレート境界域における海溝型地震
■パラメータ
震源深さ24km 規模Mw9.0
プレート間でも相当浅い地震で規模は想定外(三陸沖8.5が想定されていた?)
正直僕自身地震の時系列を調べていたがこの深さでこの規模の地震は見たことが無い。
当然司・翠川の式に当てはめれば、相当な地動加速度が観測されるのは間違いない。
11日の東日本大震災で震度7だった宮城県栗原市で、瞬間的な揺れの強さを表す最大加速度が2933galと
重力が持つ加速度の約3倍に達していたことが、気象庁の調べで分かっている。
世界で最初に取れた大きな地震の波形は、1940年アメリカのエルセントロ(カリフォルニア)で記録されたインペリアル・バレー地震(通称エルセントロ地震)340ガル・マグニチュード6.7でこの地震波が一番良く使われている。それと比較しても最大加速度の値に大きな差がある。
今後の耐震設計の際の地震波の策定方法に物議が醸されそうな気がする。これ程の想定外は誰しも予測できなかったというのが印象である。

②地震時
私は地震発生時新宿の紀伊国屋にいた。新宿の典型的なペンシルビルでとてつもない揺れを感じた。
死んだ…。と思われたが幸運にも生きていた。
その後、何が起きたのかわからずニュースを見るとM8.8の地震が発生したことが分かった。
恐らく新宿駅の近くのカラオケ店に映されたテレビで分かったことだが。
駅周辺は大パニックで人でごった返した。
電車は止まるし、店は閉まるし、行く当てを失う。
一先ず駅に行く事としたが、人がごった返していて、JRは当然ながら全て運休。
暫くしても之は埒があかない予感がする。
その後、正直危険ではあったが、漫画喫茶で一夜を過ごす事とした。
情報が一番入り、居場所がある為、悪くは無い判断であったと思う。
状況としては
電話の回線は全てストップ。店は閉鎖。コンビニも在庫切れ。電車は止まる。電気はセーフ。帰宅難民で溢れる。そういった所か。

終電間際になって、各地で私鉄が運行を再開する中、JRは運行を再開できなかった。
脱線するがここの原因をメモ(仮想)
考えられる理由として、地上であること。之は地下鉄に比べて地震に対するリスクが非常に大きい。
①耐震面での線路のゆがみなどの点検の時間。
規模も大きいため、短時間での復旧は困難。
②踏み切りの存在により電力が途切れた場合に混乱を起こす点。
(ただし、電力不足は地震発生から1-2日目くらいから現れる)
③人員不足。
他にも色々あると思うが別にて。

私は始発にて都営新宿線に乗って無事帰宅。親父も会社にて帰宅難民になったそうだ。バナナで栄養補給。

原子力発電所の問題。
今も尚続く。
之に対する考え
・同じインフラ業として避けては通れない。
・原子力の安全性は説明されてきたが、地震と津波の組合せは想定外だった。
・色々な不運が重なっただけ。(専門家の建前)
・一方で、それ以外の日本人はどう感じたかというと、当然「ふざけんじゃね!」だと思う。
・自分達の生活を棚に上げて原子力否定論者になるのは間違いである。
・この二つの間の境目を見つめ直すとてつもなく貴重な機会になったのは間違いない。
・100%はありえない。誰しも分かっているが、いざ起きると溜まったもんじゃないと思う。
建設的な考えを策定しなければならない。
今後世界的に二酸化炭素低減していかない上では原子力発電は重要な役割をしていかなければならない上で、史上最悪レベルでの事故。
・今後原子力を普及するためにはどうしなければならないか?
【問題】
人命を危うくした。              経済活動を止めた。
放射能⇒距離を遠ざけるしかない。       電力⇒リスク分散、緊急時対応の詳細を練り上げる。企業価値の低下に繋がるから。

【技術的な面での解決】
原子力は安全性を保証するためにあらゆるフェーズで防御設備が設計されている。
具体的には分からない。しかし、今回はそのフェーズが作動していないことにまず問題があるといえる。
徹底的に事故調査をしていかなければならない。それこそ想定をして。
今回地震に対してはある程度の耐性はあったと思われるが、津波の想定をうわまわったと捉えられていて、
今後の検討内容としてはそこであろう。
想定には想定外が付き物である。(市民が永久に納得できない。)
誘致の最大の決め手は何か?
お金?

・それほど必要なら、原子力島を作る。
事故後に人命には影響を与えにくいと考えられる。
ただメンテナンス、コストそれらを考えると現実的ではない気もする。
【他の原子力設備はどうするのか?】
・市民は納得しないであろう。
・防災性をどう補うのか?

ヒントはどこにあるのか?意思決定はどこにあるのか?

以上

2011年2月28日月曜日

宿検索

日本でもtripadivisor

2011年2月20日日曜日

ルネッサンス期

特にフィレンツェ

ルネッサンス期=近世ヨーロッパ
イタリアの諸都市は十字軍の遠征に伴い、当方との貿易路が拡大。
商人が力を持つ。
その代表的なのがメディチ家
金融業で大儲け。商業の発展に伴い、預金や両替や手形のニーズが必要になった。
国王や貴族は公債を発行し資金を集めた。

ロレンツォ・デ・メディチ(コシモ・デ・メディチの孫)

文化の開花
これらの豪商やローマ教皇や貴族らの保護(パトロン)によって芸術家の自由な創作を支援
文芸復興(古代ギリシャやローマの文化の研究が盛ん)
当時の芸術家は絵画、彫刻、建築まで何でもや。ダビンチが代表的

keyword
旅行:サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会、ウフィーツィ教会、サン・ピエトロ寺院
代表的な絵画
ビーナスの誕生
受胎告知
最後の晩餐
モナリザ
ひわの聖母など
代表的な人物
ダンテ、レオナルドヴィンチ(神様)、ジョット、ミケランジェロ、ラファエロ、ガリレオ、ルターなど

レオナルドダヴィンチの師匠はベロッキオ先生(15才から)、20才で親方になる。30才でミラノへ⇒戦争兵器も考案、ベネチア、ローマなど

2011年2月18日金曜日

世界史勉強②

ベネチア サンマルコ聖堂
11
ビザンチン様式 東ローマ帝国の建築様式
丸いドームが特徴

ピサ大聖堂 

ロマネスク様式 11-13
横の広がりと重厚さが特徴

フランスとイギリスの領土派遣戦争 100年戦争
フランス王 フィリップ家
イギリス王 ジョン エドワード家

フランス ジャンヌダルクによる窮地からの脱出

2011年2月17日木曜日

世界史勉強①

サン・ピエトロ大聖堂 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82
now:バチカン市国 ローマ法王

コンスタンティヌス帝

フランク王国とローマ教会との結びつき ローマ教会⇔コンスタンティノープル教会(西ローマ 東ローマ)
カール大帝 イスラム勢力(バルセロナ)、ザクセンとの戦い
文化:アーヘン 宮廷礼拝堂 学校建設 神学 天文学
カール大帝の文化運動 カロリングルネッサンス
バイキングスなどの台頭
カール大帝死去

メルセン条約⇒カール大帝の子息によってフランク王国の分裂⇒今のヨーロッパの根幹

東フランク王国(ドイツ)⇒神聖ローマ帝国:オットー一世(ローマ教会の後ろ盾)
西フランク王国(フランス)⇒フランス王国:ユーグカペー

イギリス:西フランク王国と政略結婚したノルマンディ公がアングロサクソンの収めるイギリスに進行。

ローマ教会が力をつけてくる。⇒皇帝と教皇の対立 カノッサの屈辱

エルサレムの攻防 エルサレムのイスラム軍による支配⇒第1~7回までの十字軍の遠征 和平もあったが失敗に終わる

2011年2月2日水曜日

ヨーロッパ旅行回顧録  -12/17

12/17 今日はKölnに行く事に決めていた。
毎日ノリだけで旅行するのも良いけど、今回は初めてのヨーロッパなので割としっかり計画していった。

YHの朝食はビュッフェでハム、チーズがめちゃ上手かった。種類とか名前はよく分からなかったけど、今度食べる時は名前も覚えたいな。ドイツ:ラックスシンケン(豚ロース)、ヌスシンケン(豚もも)、イタリア:コッパ(豚肩ロース)←ラックスシンケンと区別分からん。

YHからDüsseldorf中央駅まではU-bahnという秀逸な電車に乗る。この電車は地下鉄と路面電車が一体となった鉄道で、Rhein側を渡るOberkasseler橋上で地下に潜って中心地の駅まで行く。
ドイツは都市と周辺市街地をつなぐインフラとしての鉄道が優れていることを改めて確認した。

KölnまではICEに乗って30分位だった(気がする。)と思う。狭かったけど快適でした。
駅で久しぶりに彼女と合流し近況報告。満喫してるようで何より。

Kölnといえばケルン大聖堂といって過言ではない。ユネスコ世界遺産にも登録されている。
駅を降りると突如圧倒される建造物に出くわす。
マジで興奮する。
ケルン大聖堂
データ:1248着工1880竣工 ゴシック教会建築
600年以上かけて作り上げたこの大聖堂は月日とそれに相応する迫力を感じた。
頂上まで気合で上り、スキマからは雪が降り注ぎ、外には一面が白く染まったケルンの市街地が見えた。
最高の眺めで、

周りではこの時期ならではのクリスマスマーケットがやっていた。
あとから思ったが、ドイツのクリスマスマーケットが一番質が高かった。
あとはお昼からケルンのご当地ビールのKölsch(ケルシュ)を飲み、ソーセージも食べ満足。

夜は彼女の大学の知り合いたちも参加するホームパーティに連れて行ってもらいました。
さすがに自分が来るとは思わなかったみたいで、サプライズになったみたいです汗
グリューワインはドイツではクリスマスに恒例として飲むみたいね、加熱した温かいワイン。
とても美味しくフルーティな味でした。
その後皆と別れ、またDüsseldorfのYHに帰還

振り返ると最高の旅の二日目

2011年1月3日月曜日

ヨーロッパ旅行回顧録  -12/16

何故こんな時期に旅行に出かけたのか。
周りの人には唖然とされた。

しかし、冬のヨーロッパイイじゃないか。
そんな期待はつかの間、今年は生憎の極寒地獄。
ヨーロッパ大寒波の到来との報告を各地から聞く。

「2時間も観光したら部屋に入りたくなる」
教授も先日、国際会議と家族サービスを兼ねてホクホクとオランダ等を訪欧したと聞く。
その教授からの伝達事項であった。

うぅぅぬぬ。

準備もいそいそ、出発の比はやってきた。
ユニクロのヒートテックタイツ、手袋、ネックウォーマー、
カップラーメン、コンポタetc...
珍しく抜かりない準備をして出発。

今回の旅は往復ともに一人っきりなので若干不安であったし、
経由地のミラノでは数時間待たされるなどのトラブルに見舞われ
疲労困憊 アセアセ 家を出発してから宿まで20時間くらいはかかったかな。
ドイツ留学中の彼女がDüsseldorf空港まで迎えに来てくれるはずであったが、
Wuppertalからの電車が豪雪のため動かないらしく、帰宅させた。

そんなこんなで、目当てのJugendherberge(YH)@Düsseldorfに着いたのは深夜12時近くになっていた。
Rhein側沿いの非常に綺麗なYHであった。

受付には、黒人系で非常に愛想のいいダーシーとやや恰幅の良いStephanが待っていてくれた。
ダーシーは日本語を勉強しているらしく、日本語と英語が混ざった不思議な会話をする。

部屋では自分以外の見知らぬ3人が既にいびきを掻いて寝てたため、起こさないようにしてばくすい。
こういう状況は初めてなため緊張。

こんな始まりの一日でした。寝たのは1時過ぎ。意外と健康。